自分とタッグを組む
今朝、なぜか急に思い出した
わたしにとっては当たり前にあった
昔なじみの感覚。
3年くらい前だったか
聞き方を学ぶ、あるワークショップの最中に
その感覚はいきなりやってきた。
少し先にいる、椅子に座っている相手に
歩いて近づいていって、その隣に自然に座る。
座っている相手は、どんな感じがしたかシェアする。
ただそれだけの、シンプルなワークだった。
相手に波長を合わせるのは得意なほうだし
一緒にいる仲間も、知らない相手ではない。
なのに、その時のわたしは
いつになく緊張して、自然に歩けない。
何度やっても、どうしてもできなかった。
うまくいかない
うまくいかない
うまくいかない・・・
ストレスがMAXに達したわたしは
思わずその場にしゃがみこんで
ついには泣き出してしまった。
あぁもうイヤだ!
これ以上できない!!
わたしは・・・
人に近づくのが、怖い!
出てきた言葉に、自分が一番驚いたけど
それはたしかに、長い長い間
無意識にあった思いだった。
いつも人に囲まれているようなイメージの
わたしを知る人は
もしかしたら、びっくりするかもしれない。
幼少期、身体の大きい父親が、
何の前触れもなく、機嫌が豹変するのが
わたしはほんとうに怖かった。
なぜ怒られるのか?
わたしの何が悪かったのか?
前後関係がまるで理解できなくて
わたしは自分の言動を
いちいち振り返っては
「これでよかったかな?」
「こう言えばよかったかも」
「大丈夫かな?怒られないかな?」と
何度も確認するクセがついてしまった。
実際は、わたしの言動とは関係なく
父は感情を発散する人だったので
確認したところで、どうしようもないのだけど
そうすることで、気持ちを安心させていたのだと思う。
それでも、末娘のわたしは
父に可愛がられていることも感じていて
わたしは「怖がっている自分」をひた隠しにした。
お父さんに近づくのが、ものすごく怖い。
けど、それは決して言ってはいけない気がして
怖がる自分を押しこめて、平気なフリをすることにした。
それが、幼いわたしなりの
けなげな愛のカタチだったのです。
それも、時間をかけて癒してきたつもりだったけど
「怖い」という感覚は、なくなったわけじゃなくて
ずっと体に記憶されてたのね。
そんなふうに
こころの内側を見ていくと
思いがけないタイミングで
わたしの中に
こんなものがあったなんて!
と驚くような気持ちを発見することがある。
それは、今いきなり生まれたのではなくて
長い間おさえこんで、ないことにしてきたものが
ようやく日の目をみるときが来たというサインで
多くは、今なら受け入れられるという
余裕や成熟さの表れだったりもする。
今朝、目が覚めたときにふと思った。
そういえば、わたし自分の言動を振り返っては
「これでよかったかな?」と
くよくよ引きずることがなくなったなぁ…と。
怖がりで、できるだけ危険を避けようとするわたしと
行きたい方向に果敢に向かっていくわたしは
今ではけっこう仲よしで、どっちかを潰すことなく
お互いに話し合って、行き先を決めている。
あれから、何をやったからどうなったという経緯は
正直、もう思い出せないのだけど
自分の中にたしかにある
わたしの一部を、もう隠さなくてもいいんだ!
と気づいたあの瞬間は
大切な一歩だったなぁと思う。
あれもわたし
これもわたし
切り離そうとした自分を見つけては、ひとつになる。
そもそも、自分をないことになんてできないんだ。
自分の中にいろんな要素があるんだって
ひとつひとつ、深く気づいていくのは
実はとても豊かな体験だと思う。
そして、魂はそれを求めているとも思うから
必要とする人のサポートしていきたい
と、わたしは今改めて思う。
いろんなあなたが日の目を見て
タッグを組んで歩んでいけますように。