愛とは、違いをゆるし、乗り越えること。
愛とは、、、という定義は、人によってさまざまだと思う。
正直なところ、わたしは、
自分のことばで愛を語れるほどには成熟してない。
ただ、わたしなりに、精一杯ひとを愛し
愛するって、いったいどういうことなんだろう?
と、泣きながら悩んだ経験もある。
その時でた、ひとつの答えは
愛とは、お互いを自由にするもの だった。
だから、わたしにとって「自分を愛する」とは、
「自分を自由に解き放つ」ことだと、今は思ってる。
これが正しいんだと言いたいわけじゃなくて
そんなふうに、愛しあえたらいいな
と強く思ったその時があって、今のわたしがある。
だから、わたしのあり方は、また変わるかもしれない。
いつの日か、これがわたしなんですと
自分の愛に自信をもって差しだせたら素敵だなと思う。
だから、今日のタイトルは、わたしの言葉じゃない。
先日のアートレッスンで受けとった、宇宙の愛のメッセージだ。
愛とは、違いをゆるし、乗り越えること。
わたしたちは、ほんとうにみんな違う。
その違いこそが素晴らしいのに
その違いが、ひとを苦しめたり、争いのもとになることもある。
日本語教師時代の同僚が、印象的な投稿をしていた。
外国人留学生を連れて、大学のオープンキャンパスに見学に行った。
彼らの中には、宗教上の理由で牛や豚が食べられない人たちがいる。
でも、その学食では、そんな存在はまるで想定されてない様子だった。
どんな食材を使っているかを確認するだけでも、とても大変だったと
大きなカツカレーの写真とともに綴った短い文章に
せめて、その存在を知ってほしい
という切なる思いが響いていた。
もちろん、ムスリムやヒンドゥーの存在を、知らないわけではない。
けど、感覚としてはやっぱり遠いんだ。
外国人居住者も、その子供たちも、増える一方なんだけど
国際化とはいっても、自分のすぐ隣に、まるで違う文化のひとが
生きていることが、まだまだリアルには想像しにくい世の中なんだろう。
国籍が同じでも、驚くほどに考え方もアイデンティティも違う。
「日本人はみんな同じ」という一昔前の感覚とは、もう時代が違う。
ほんとうに、さまざまな立場のひとが今を生きている。
自分と同じではないんだと知ること。
それは、興味をもつことから始まる。
そして、正しさの論理ではなく、違いをゆるしあうこと。
それが違いを乗り越えていくための、偉大な愛の一歩なんだと思う。
目の前のひとに興味をもって、自分との違いを知ること。
知ることで、自分の世界が広がる。
その違いをゆるしあい、乗り越えようとすること。
しばらくの間、ひとと接するとき
この思いとともに過ごしてみようと思う。